フルーツトマトの料理
トマトとタコのマリネ
材料(2~3人)
- トマト・・・1個
- キュウリ・・・1/2本
- タコ・・・適量
- 酢・・・大さじ1
- オリーブ油・・・大さじ1.5
- 塩・・・少々
- コショウ・・・少々
- レモン汁・・・適量
- バジル・・・適量
作り方
- トマト、キュウリ、タコは食べやすい大きさに切る
- ボールに酢、オリーブ油、塩、コショウを入れ1を混ぜ合わせ味を調える
- レモン汁、バジルも加え、冷蔵庫に入れ味をなじませる
トマトソーススパゲティ
皮ごとさっとソテーしたトマトが、ほろりと崩れてスパゲティとからむ
材料(2人前)
- トマト・・・6個(約400g)
- ニンニク・・・1/2個
- ピュア・オリーブ油・・・20cc
- 塩・・・適量
- スパゲティ・・・160g
- パジリコ・・・2枚
- オリーブ油・・・少々
作り方
- トマトは8等分のくし型に切る。ニンニクはみじん切りにする
- フライパンにニンニクとピュア・オリーブ油を入れ、ゆっくりと弱火で香りを出す
- トマトを加え、少し煮崩れする程度に軽くソテーする。軽く塩をする
- ゆで上がったスパゲティを加え、和え、必要なら塩で味を調える。仕上げに バジルをちぎって加え、エキストラバージョン・オリーブ油を入れさっと混ぜる
トマト椎茸
材料(2人分)
- シイタケ・・・4個
- 好みのチーズ・・・適量
- プチトマト・・・2個
作り方
- シイタケのへたおを取る
- 上にたっぷりのチーズをのせる
- オーブントースターまたはグリルで5~6分約
トマトの旅
メキシコからヨーロッパへ
メキシコの諸帝国を踏襲した、スペインのコンキスタドール、エルナン・コルテスの帰国とともに、トマトは、 ついにョーロッパヘ渡る。しかし、食用としてヨーロツパに普及したのは、なんと約200年経った18世紀のこと。 なぜ、こんなにも長くの間、食用として受け入れられなかったのか?
トマトがョーロッパに伝わった16世紀当初から、トマトは、株や果実に独特の青臭さがあることや、 同じナス科の毒草で、 マンドテゴラという麻酔作用や幻覚作用のある植物があり、 その植物と花がよく似ていたことから、トマトも毒草の一種と定義されていた。 また、その血のように赤い果実も抵抗感を誘う起因になっていた。しかし、一方ではそのあまりに 鮮やかな赤い果実を、褒め称える愛好家もおり、観賞用植物として扱われる一面もあった。
ヨーロッパでトマトをはじめて栽培し、食用としたのはイタリア人という説がある。しかしこの経緯には、 イタリアで飢饉が発生して食べるものがなくなり、しかたなくトマトを食べたことが、食用としたはじまりと言われている。 しかし食べてみたところ、意外にもおいしいばかりか、他の料理にも実によく合う、ということが判明し、 これを機に、地中海沿岸の南ヨーロッパを中心に、トマトの食文化が広まる。
栽培トマトの発祥地。メキシコに隣接する国でありながら、アメリカにトマトが伝わったのは、ヨーロツパに遅れること 200年余。当時の、バージニア州知事だった、後の第3代大統領トーマス。ジェフアーソンが、 1781年に自宅の庭で栽培をはじめたという記録が古い文献に残る。そのころのアメリカでは、輸入の際、 果物には関税がかからず野菜には関税が課せられていた。このため、トマトの輸入業者は、 税金がかからないようにとトマトを″果物″だと主張した。これに対して農務省の役人は″野菜″だと反論した。 両者は一歩も譲らず、協議はこう着した。そこに、果物派に植物学者も加わり、論争はエスカレート。事態は、 とうとう最高裁判所の判決を仰ぐことになってしまった。そして判決の結果は、野菜。裁判長は苦悩を重ねた末、 判決文には「トマトはキュゥリやカボチャと同じように野菜畑で育てられている野菜である。また、 食事中に出されるが、デザートにはならない」と念書した。19世紀に入ると、 ニューオリンズでは旧フランス領で あった影響もあり、料理人達がすでにトマトを使っていた。その後も高感度な東アメリカの都市ではトマト料理 が普及していった。
一方、北アメリカでは、前述の裁判の後もしばらくは食用としては認知されず、まだ、 トマトは有毒であるという説が飛び交っていた。そんな中、1820年、 ニュージャージー州の軍人で農場主でもあった ロバート・ジョンソン大佐が、町の裁判所前の階段でトマトを食べて民衆に毒がないことを証明した。 ジョンソンは、自分の家の庭で育てたトマトが食べられることを証明したかったのだ。裁判所の前には見物客が町中から 数百人も集まり、なかば、ジョンソンがトマトにかぶりっぃたとたん、倒れるのではないかと期待してやつてきていたのだ。 そして、ジョンソンがトマトを口にすると、観衆の中から悲鳴が起こう失神する女性が続出した。 しかし、ジョンソンは何の異変もなく、トマトをたいらげてしまった。このエピソードは、 今でも話題になっており1989年~1993年には、ジョンソン・デイとして、このエピソードを再現するお祭りが 開催されたほど。この一件から数年後、19世紀のなかばになると、アメリカの農産物市場ではトマトが本格的に 売り出された。
アメリカ、日本へ
ジョンソンとは、経緯が違うが少し似た話をひとつ。まだ、トマトは有毒という、 噂がぬぐいきれていなかったアメリカでは、トマトを使ったある陰謀を企ていた一味がいた。エイブライハム・ソンカーン。 世界の歴史にその名を刻む、第16代アメリカ合衆国大統領だ。彼が大統領として就任した1860年代なんと、 トマトをリンカーンに食べさせて毒殺しようという計画があつた 企んだのは政府反対派。その一味は、 トマト料理を食べさせれば大統領を暗殺できると真剣に考え毒殺計画を練ったその陰謀に参画した料理人も、 トマトに天然の毒性があると信じ込んでいた。トマトに毒を盛るわけではなく、トマト自体を食べさせれ 本気で殺せると思っていたのだ。しかし、この実行者と予定されていた料理人が、自分のしていることに心をとがめ、 共犯者の名前を書いた遺書を残して自殺してしまった。こうして、計画は未遂に終わった。
後にそのことを知ったリンカーンは、これまで食べたこともなかったトマトとトマト料理を食べてみせた。 おいしそうにトマトにがぶりっくその姿は、トマトに毒が無いということを示す決定打となり、 多大な反響を呼んだ。この1件により、いわれのないトマトの冤罪は完全に晴れて、その後、 アメリカではトマトが人気の野菜として急上昇したという
日本・にトマトがやつてきたのは‐7世紀半は 徳川四代将軍・家綱のおかかえの絵師であつた狩野探幽が、 「草木寫生圖卷」という絵の中で″唐なすびと言もの也″の添書とともに、トマトのスケッチをしている。 この時、1668年。当初はヨーロツパ同様、観賞用植物として珍重されていたようだ。 江戸時代末期から明治初期にかけて、時代の西洋化も手伝い、ようやくくトマトを食べる日本人が増えてきた。 しかしまだ、生食ではなく香辛料として洋食に使われていた程度。元々、トマトをはじめとして、 多くの西洋野菜が明治初期に食されなかったことの第一の原因として″日本人は野菜を生で食べる風習が無かった″ ということが挙げられる そこで、日本の本格的な国際化を望む、 一部の人間が、トマトという西洋の野菜を食べる 工夫をした その中心になった人物とは、かの福沢諭吉 彼は自分が発行している「時事新報」 と言う雑誌に1893年9月24日から、日本ではじめての料理レシビ集の連載を開始した。そのタイトルも 当時としては実に柔らかく「何にしようね」。これには、当時、女性達も教養を高める記事を読んではしいという願いと、 トマト料理を一般家庭に根付かせようとい福沢諭吉の思いが形となって結実したものだった。
大正に入るころには、日本人の味覚もだいぶ西洋化し、ケチヤツプなどの登場でトマトは市民権を得ていつた。 昭和初期には日本人好みに品種改良もされ、トマトの需要は普及の一途をたどった。
今や日本中の喫茶店や大衆食堂の定番メニューとして定着しているナポリタンは、西洋料理のバスタを 日本人の好みに合うようにアレンジした、日本オツジナルのトマト料理である このナポリタンは、戦後、横浜山下町 にある『ホテルニューグランド』の総料理長であった入江茂忠が考案。同ホテルは戦後まもなく連合国軍総司令部に 接収され、マッカーサーが滞在していた部屋が現在でも残っている。このような時代背景から、 進駐軍が食べていたスパゲッテイにトマトケチヤップを和えた軍用食からヒントを得た入江は、 ケチヤツプだけでなくトマトピユーレ、調味料や具材を加え、本格的な西洋料理に仕上げた「スパゲッテイナポソタン」 としてホテルのメニューに載せた。ちなみに当時のレシピは、今のナポリタンよりも、ナポリ風ソースに近い料理 であつたようだ。(参考:トマトの本)