中岡慎太郎 略年譜
- 天保9年1838年1歳
- 弘化元年1844年7歳
- 嘉永4年1851年14歳
- 安政2年1855年18歳
- 安政4年1857年20歳
- 文久元年1861年24歳
- 文久2年1862年25歳
- 文久3年26歳
- 元治元年27歳
- 慶応元年28歳
- 慶応2年28歳
- 慶応3年1867年
4月13日、父・中岡小伝治(北川郷大庄屋)、母・ウシの長男として、北川郷柏木に誕生
安芸郡野友村の漢方医・島村策吾に四書を学ぶ
島村塾の代講を勤める。この頃、篠崎小竹の手本書により 王義風の書を極める。
藩校・田野学館で武市半平太に剣術を学ぶ。高知城下江ノ 口の真崎滄浪塾で経史を学。
野友村庄屋・利岡彦次郎の長女・兼(かね)と結婚。北川 郷大庄屋見習となり、農民のために活躍する。
武市半平太の土佐勤王党血盟文へ17番目に署 名。
4月、土佐藩参政・吉田東洋が暗殺される。10月50人 組の伍長として江戸に行き尊攘運動に参加。
9月、脱藩し、長州三田尻に行き三条実美に面会する。三田尻滞在3 日後、三田尻を出発、土佐に入るも武市以下勤王党有志が投獄されており、再度脱藩し三田尻へ向かう。
1月、長州藩邸で高杉晋作と知り合い意気投合する。7月、禁門の変 で負傷、三田尻に敗走。
6月、坂本龍馬とともに薩長和解運動に奔走する。この時、「時勢 論」を執筆。
2月、桂小五郎に薩長連合の成立をきく。「窃に知己に示す論」で大 政奉還を主張する。「愚論窃に知己に示す論」で土佐藩に兵制改革の重要を説く。
7月、京都白川の土佐藩邸に陸援体を組織する。この夏「時勢 論」を書き、非常の覚悟を固める時だと力説。この頃、慎太郎の説得により岩倉具視、三条実美の提携成る。11月15日、京都河原町の近江屋で坂本 龍馬と共に襲撃される。11月17日、夕方、絶命。
柚子を生産する北川にある中岡慎太郎の生家
中岡慎太郎の生家にある箪笥の上に置かれたあった説明文です。本品は中岡家で奉公した「おぬいさん」に中岡より贈られたものである。同女は嘉永元年生(1848) 長じて10才の頃より中岡慎太郎先生宅に行儀見習として奉公する。文久3年頃(15才頃)婚約整い道家を去るにあたり贐(はなむけ)として箪笥2棹をおくられる。大事に使い後年孫娘の嫁ぐ時その内の一棹を記念品として持たせ、このほど生家へ展示するため当人(孫娘)より寄贈されたものです。文久3年は先生脱藩の年でもあります。昭和59年8月記(水洗いのためハゲ落ちているが僅かに残るウルシ塗りにご注意ください。)
中岡慎太郎の記録(生家にある立て札より)
- 二十五歳 三月岩佐を経て京都へ行く。 五月に帰り七月再び武市瑞山に招かれて上京。
- 十月十四日:五十人組に参加、伍長にえらばれて高知出発。大阪、京を経十二月十一日江戸発、十八日水戸を過ぎ信州松代に久間象山を訪問。
- 十二月十九日:付水戸藩士川瀬教文の日記に「・・・長州藩久坂玄瑞、土州藩中岡慎太郎 に面会し・・・」とある。二十六歳
- 一月九日水戸、信州松代を経て入京。
- 二月七日:他藩応接係と徒歩目付の役を拝命。
- 四月十二日:柏木に帰る。
- 八月十七日:乾退助を訪問して意気投合。
- 九月五日:郷里柏木の父、妻に「高知へ行く」といい、阿波を経て長州三田尻に行き、 三条実美に面会、土佐藩状を報告、招賢閣に入る。
- 九月二十一日:三条実美の使者として三田尻を出発、武市半平太を尋ねて高知城下に入る。 しかし、武市等は投獄され、慎太郎などにも追捕の手がのびていると知り、脱藩を決意、木に帰ることなく城下から姿を消し再び帰る事なし。
- 十月十九日:再度三田尻至り復命して招賢閣に入る。慎太郎は招賢閣会議員に推され、 また真木和泉を総裁とする忠勇隊の幹部にも任ぜられる。二十七歳
- 一月十九日:上京して国事を謀る。
- 二月四日:京都にて西山頼作の変名で薩摩の情勢をさぐる。二月二十四日付土佐の 山本頼蔵の洛陽日記に石川清之助と逢うと見え、石川清之助の変名が知れる。
- 五月二十七日:三田尻に着き招賢閣会議員や奇兵隊に京都の情勢を報告。
- 五月二十八日:湯田に居る三条公に報告の後、翌日山口で長州藩の同志に知らす。
- 六月七日:三田尻発京都に入る。
- 七月十八日:いよいよ京都進撃を前に父兄にあてて訣別書をしたため、 必死の覚悟をしめした。
- 七月十九日:禁門の変に出陣、足を負傷し、のがれて三田尻へ帰る。
- 八月五日:下関に出陣、高杉を助けて夷船をを撃たんとする。 忠勇隊長に挙げられる。
- 八月二十六日:三田尻を発ち上京、九月二十七日:三田尻に帰る。
- 十一月一日:因州藩の情勢視察のため長藩士と潜行して帰る。
- 十一月十七日:五郷は長府の功山寺へ移る。中岡の忠勇隊も三田尻を脱出して長府へ向かい、 尚義隊と協力して警衛を引き受ける。
- 十一月二十三日:筑前の早川養敬が馬関に来たのを幸に薩長連合の急務を説く。
- 十二月四日:筑前藩士早川養敬の僕として寺石貫夫の変名をつかい小倉の西郷隆盛と面談。
- 二十八歳 一月十一日:五郷の住む長府の功山寺に至り奏上後直ちに馬関に高杉を訪う。
- 一月十四日:五郷を護り功山寺を去り、同月十八日筑前赤間関に着く。
- 二月五日:上京の為赤間を出発、二月七日馬関にて長藩有志に薩長和解の遊説をする。
- 二月十三日:入京薩藩邸に入る。
- 三月二十九日:三条公の命を受け太宰府を出発
- 四月六日:山口に至る。
- 四月二十七日:三条の命で上洛の途につく途中四月三十日桂小五郎と面会、薩長連合について打診する。
- 閠五月四日:長崎着。
- 翌六日:午後鹿児島着、藩内で会議に会議を重ねる。
- 閠五月十五日:西郷隆盛等と乗船するも途中西郷は急用あり大坂へ急げの命を受ける。
- 同月二十一日:単身下関帰着し、二十九日龍馬と共に西郷と会うが出発、途中芸州や備前 でも長州に味方してくれるようたのみ六月八日入京。京都の薩摩邸に滞在して薩長和解の 策を練る。
- 七月十九日:京都より長州へ出発、同月二十八日馬関着。白石邸で一泊し薩長両藩和解の 利害を説くも困難を極める。
- 八月十一日:薩長和解問題解決の為単身上京、 九月三日:下関帰着。
- 十一月二十二日:大宰府で五郷の応接係を命ぜられる。
- 十二月八日:東久世郷に「時勢」を論す。
- 二十九歳 一月二十一日:薩長同盟成立。
- 二月十日:三田尻発上京、西郷にたのみ お龍を坂本龍馬の正式の妻とならしむ。
- 二月二十九日:小松、西郷、吉井ら討幕準備のため帰国する事となり慎太郎も同乗。
- 三月六日に馬関入港。
- 三月十日:馬関より一書を大宰府の土方に送り西郷、小松等の帰国と、高杉が長藩主の使命を帯びて鹿児島に向かう事を知らす。
- 四月十七日:馬関を発し太宰府に帰る。
- 六月二十六日:父小伝次八十六歳で没するも慎太郎は知らず。
- 八月十三日:去る七月三日の第二次征長戦の戦況を郷里の父に知らせる手紙を書く。
- 九月二十四日:慎太郎は西郷信吾(従道)と共に長州を去り上京、 薩藩邸六番長屋伊地知正治のもとに寄寓。「竊(ひそか)に知己に示す論」を表す。
- 十一月二十四日:朝面会に来た北川武平により父の死を知る。
- 三十歳 一月九日:午後二時頃大宰府着、夕方五郷に面会、上国の情況を報告。 翌十日三条公に面会。
- 二月二十六日:大宰府出発、阿蘇嶽をながめ天草を通り鹿児島につき、 大山格之助邸に投ず。吉井氏、島津久光公と面談。
- 三月十日:鹿児島を発し、天草諸島を経、長崎に着き小曽根を訪う。 菅野、中島、門田に逢い、大村に至って渡辺兄弟や永岡に逢う。
- 三月十七日:午前大宰府着、同十九日大宰府発黒崎を?て小倉に着く。 同二十日朝馬関着、坂本 伊藤を訪う。
- 翌二十一日:高杉晋作を訪う。
- 四月八日上京、板倉筑前介を訪い西郷に逢い、四月二十一日:前田雅楽に逢い、岩倉具視と初めて面会し感歎する。四月脱藩罪を赦免せられる。
- 五月十日:午後岩倉具視に逢う。
- 五月二十一日:板垣、中岡 、西郷ら京都で薩土討幕を密約する。
- 六月二十日:在京の後藤象二郎、坂本龍馬、中岡慎太郎、小松帯刀、西郷吉之助、 大久保一蔵ら大政奉還の盟約を結ぶ。
- 六月二十五日:坂本を伴い岩倉郷に逢う。
- 七月二十四日と二十六日岩倉郷に逢う。
- 七月二十九日:陸援隊を組織し隊長となる。
- 八月六日:岩倉郷と西郷に逢う。
- 八月八日:小松、毛利、辻 、十津邸をそれぞれ訪ふ。
- 十月十日:坂本来訪。
- 十一月十五日:坂本龍馬の下宿近江屋で刺客に襲われ重傷を受く。
- 十一月十七日:絶命。
- 十一月十八日:京都東山に埋葬せられる。
- 明治四年八月二十一日:特旨をもって義兄源平の長子照行に相続を命ぜられる。